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クマが人里に出没するわけ・1

昨日、村外の人と話をする機会があった。
そのときの会話。

私:「このあたりにはクマが出るんですよ。」
客:「ああ、やっぱり、森が減ってエサがとれないからですよね。」

おそらく、多くの人はそう思っているのだろう。

この「森が減ってエサがとれない」という不確かな情報は、
いったいどこからもたらされているのだろう。
私もどこかで聞いたことがある。

まず、「森が減っている」というのは間違いである。
日本全体でみると、とくに戦後、森林面積は増えている(小椋 2006)。

ではなぜ「減っている」ように思ってしまうのか。
おそらく高度経済成長以後の都市近郊の開発が、
その因子として働いていると思う。

確かに都市周辺では森林が減少した。
多摩ニュータウンの開発などをみれば明らかである。
(パルテノン多摩歴史ミュージアムの展示や出版物を参考にされたし)

しかし多くの農村では、農業の衰退や生活様式の変化、たとえば
萱葺き屋根の減少や炭焼きの衰退などによって、
農地や草地が放置され、森林が増えている(たとえば有岡 2004)。

だから結局、日本で「森が減っている」ということが論じられるのは、
まったく都市とその周辺に住む者の視点での物言いなのだ。

【無題】
無題

これの何が問題かというと、
本来は、農業や伝統的な山林資源利用の衰退のような、
とても対処の難しい複雑な問題であるはずのことを、
「開発」という単純で攻撃しやすい「敵」をつくりだして、
棚上げにしてしまうことである。

これもある意味では自然環境というものが、
人々の手から離れてしまっていることの現われともいえるだろう。

これから必要なのは、その誤りを認識して、
「森は増えている」→「その代わりに減ったものがある」→
「そこには多様な生き物がいた」→「それはどうすれば守れるか」
という考え方にあらためていくことだと思う。

その先には「開発」なんていう、なまやさしいものではない、
非常に困難な「敵」が待ち受けているはず。

参考文献:
有岡利幸(2004)『ものと人間の文化史118-2 里山Ⅱ』法政大学出版局
小椋純一(2006)「日本の草地面積の変遷」『京都精華大学紀要』30:160-172
 

コメント

お久し振りです。
森が増えているというのにはビックリです。

論点が違うかもしれないけど、
木を切る = 悪、木を植える = 善 という情報を植えつけられてしまった感が否めないってことでしょうか?

先日、某朝の情報番組で全国に木の苗木を植林している方がいらっしゃるというものをみて、ふと思ったんで…。

これってすごく怖いことで

>木を切る = 悪、木を植える = 善 という情報を植えつけられてしまった感

まさにそのとおりだと思う。
というのも、「木を植えることの弊害」っていうのはほとんどメディアでは取り上げられないでしょ。

スギやヒノキの植林ていうのは、もともと植物が多様だった場所を単一の樹木で置き換えていくことだし、
最近流行っている広葉樹を植えるっていうのも、日本の別の場所で木を育てて植えているとしたら、その植物の分布の歴史を壊してしまう(同じ種だとしても地域差というのは必ずあるから)ことにつながる。

日本ていうのはすごく森が発達しやすい場所だから、ほとんどの土地ではわざわざ植える必要なんてないんだよね。

それよりも、むかし全国にたくさんあった草地(もちろん人が管理していた)の激減のほうが大問題だったりするのです。

確かに草地が減っているような気が。
実家の横にあった原っぱや森も、今や家が立ち並ぶ光景になってしまったし。


> 同じ種だとしても地域差というのは必ずあるから)ことにつながる。

ど素人な意見で気を悪くしたら申し訳ないけど、そこに生息していた苗木を植えられればOKってことなのかな?

同じ種類でも、寒冷地仕様とか(車かよ!(笑))温暖に耐えられる種とか、はたまた病気に強い弱いとかあったりするんだろうね。

>そこに生息していた苗木を植えられればOKってことなのかな?

本当は自然に生えてくるのが理想なんだけど、そうも言ってられない場合は地元の系統を使って植え戻すことはやっているね。
たとえば小笠原固有のムニンノボタンっていう木は、野生の木が少なすぎる(ひところは1株しかないとまで言われた)ので、東京大学で増殖して植え戻してるよ。

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